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宇都宮地方裁判所 昭和37年(ワ)256号 判決

栃木県日光市山内二三〇一番地

原告 宗教法人東照宮

右代表者代表役員 青木仁蔵

右訴訟代理人弁護士 高橋方雄

同 山本謹吾

同 斎藤直一

同所二三〇〇番地

被告 宗教法人輪王寺

右代表者代表役員 菅原栄海

右訴訟代理人弁護士 佐久間渡

同 菊地三四郎

右訴訟復代理人弁護士 佐藤貞夫

右当事者間の昭和三七年(ワ)第二五六号建物所有権確認等請求事件について、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

一、別紙目録記載の(四)ないし(七)の各建物について、原告が所有権を有することを確認する。

二、被告は右建物について、宇都宮地方法務局今市出張所昭和三〇年一〇月一九日受付第二二二八号の所有権保存登記の抹消登記手続をせよ。

三、原告のその余の請求を棄却する。

四、訴訟費用はこれを三分し、その二を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

事実

(申立)

原告訴訟代理人は、

一、別紙目録記載の各建物はいずれも原告の所有なることを確認する。

二、被告は右各建物につき昭和三〇年一〇月一九日宇都宮地方法務局今市出張所受付第二二二八号をもってなした建物所有権保存登記の抹消手続をなすべし。

三、訴訟費用は被告の負担とする。

との判決を求め、

被告訴訟代理人は、

一、原告の請求はこれを棄却する。

二、訴訟費用は原告の負担とする。

との判決を求めた。

≪以下事実省略≫

理由

第一、日光開山の歴史

一、現在に伝えられている日光開山の歴史は、≪証拠省略≫によってみると、概略次のとおりである。

(一)、日光においては、古代より、男体山(古くは二荒山と呼ばれていた)を中心として南北に連なる山々と、その下に紺碧の水をたたえた中禅寺湖をはじめとする諸湖沼の存在による神秘的な自然のたたずまいが、自ら古人の宗教心をそそり、そこに地方的な信仰が芽ばえていたが、やがて奈良時代に入り、仏者である勝道上人がこの地を訪れ、ここを仏教行者の道場として開発するにおよんで、中央宗教である仏教がこの地に定着し、現在ある日光山の素地が築かれることとなった。

(二)、すなわち、天平神護二年(七六六年)に、勝道上人は日光を訪れてここに草庵を結んで仏堂を建て(これが四本竜寺の草創で、被告輪王寺の開基を意味するといわれている)、翌神護景雲元年(七六七年)に男体山の頂上を極めんとして初めてその登攀を試み、やがて天応二年(七八二年)にようやくその山頂を極めてここに神祠を建て、延暦三年(七八四年)に中禅寺湖の北涯に二荒大神を祀る神宮寺を建立し、同九年(七九〇年)には、前記四本竜寺の傍らに右二荒大神を勧請(これが現在の二荒山神社の起源であるといわれている)した。

なお、日光という名称は、前記二荒を音読して佳字に改めたもので、後にはこれが日光における山上山下の社寺の総称として用いられるようになった。

(三)  そして、弘仁元年(八一〇年)に、右四本竜寺に対して朝廷より満願寺の寺号(これは被告輪王寺の旧寺号である)が勅賜され、さらに嘉祥元年(八四八年)には最澄の弟子円仁が来山し、この地において広く宗教活動を行ったため、右満願寺は、天台宗の法門道場として、座主職の置かれた前記四本竜寺を本院として山内の支院は通計三六寺に達し、他方貞観二年(八六〇年)に前記二荒山神社に神主が置かれ、ここに日光山は、満願寺と二荒山神社を中心として発展することとなり、ことに鎌倉時代に入って幕府から厚い崇敬を受けるにおよんで愈々盛大となり、さらに室町戦国時代においても関東の豪族諸家と密接な交渉を保って隆盛を続け、その間満願寺の本院は、前記四本竜寺から光明院を経て座禅院に移ったが、その寺領は、次に述べる天正一八年の秀吉の改易に遇うまでは、六六郷(七一郷とも)一八万石にものぼったといわれている。

(四)、ところが、天正一八年(一五九〇年)豊臣秀吉の小田原征伐の際に、満願寺衆徒は壬生上総介義雄とともに小田原に出陣して北条氏を援けたために、秀吉により前記所領のうち足尾村のみを残してその殆んど全部を没収され、ここに一旦は衰微することとなったが、やがて徳川家康が右秀吉に代って実権を掌握し、慶長一四年(一六〇九年)に満願寺に対し、先ず残されていた右足尾村を安堵(領知権の確認)し、次いで慶長一八年(一六一三年)に、武州仙波喜多院の住職で右家康の側近であった天海が満願寺の座主に就任し光明院をその本院とするにおよんで、今市村七〇〇石を新たに寄進し、ここに満願寺は再興に向うこととなった。

二、そして、古い時代のことは別としてても、前掲各証拠によれば、右の秀吉の改易と家康による寺領の安堵寄進の事実については、これを裏付けるに足るかなり確実な資料(例えば、天正一八年の秀吉の寺領寄進の朱印状、慶長一四年の家康の寺領安堵の黒印状)があるとみられるので、右当時、満願寺は、領知権の主体として独立の権利主体であったことが明らかであり、また同寺は、以下に述べる経緯により、江戸時代以後も引続き存続し、現在の被告輪王寺に至っているのである。

第二、東照宮の創建とその法主体性

一、先ず、東照宮の造営された経緯とその後の状況について概見するに、≪証拠省略≫を総合すると、

(一)、元和二年(一六一六年)四月一七日、徳川家康は駿府城にて薨じたが、これより十数日前に、「我死後は、躰は久能山に納めて神に祝い、葬礼は増上寺に於てこれを行い、三河大樹寺に位牌を立て、一週忌も過ぎたらん後、日光山に小さき堂を建てて勧請すべし、関東八州の鎮守たるべし」との遺言をしていたので、その遺骸は直ちに久能山に納められ、かつ仮殿が造営され、同月一九日に梵舜の指図により吉田神道に準拠した遷座の儀式が行われたこと。

(二)、ところが、その後間もなく、前記満願寺座主で家康の側近でもあった天海は、その主唱する山王一実神道の立場から、家康を、吉田神道による明神としてではなく、右一実神道による権現として祭祀すべきである旨を主張して、右梵舜や崇伝らと対立したが、結局幕府は右天海の主張を容れて家康を東照大権現として日光に勧請することを決定し、これにより反対派を駆逐した天海は、幕府より家康祭祀の全権を委任されることとなり、同年一〇月、造営奉行の藤堂高虎、本多正純とともに日光を踏査して浄境を選定し、翌元和三年三月、その指揮により、前記満願寺の地である日光山に社殿を竣功させたこと。

(三)、そこで、いよいよ家康の霊柩を前記久能山から日光に改葬することとなり、同月一五日にその行列が久能山を発して四月四日に日光に到着し、同月八日に右霊柩が前記社殿の奥の院に安置され、同月一四日に朝廷より家康に対して東照大権現の神号が正式に勅賜され、同月一六日夜遷宮の儀が行われ、翌一七日には朝廷より正一位の神位が授与され、また一八日には神前で法要が、さらに一九日より二二日までは仏式の供養が営まれ、ここにようやく鎮座の儀式を終り、東照大権現が日光山に鎮座することとなったこと。

(四)、その後、寛永一一年(一六三四年)に、かねてより東照大権現たる祖父家康に対して強い傾慕崇敬の念を抱いていた徳川家光は、幕府から金五六万八千両、銀百貫目、米千石といわれる巨費を支出させて右東照権現廟の大造営事業に着手し、同一三年(一六三六年)にこれを落成し、これによって前記社殿は、そのほとんど全部が造り替えられて今日見られる規模にまで一新され、また右と前後して、全国の諸大名や諸社寺においても、その領内や境内に東照権現を祀ることが広く行われるようになり、またこのころには、朝廷でも、右東照権現やこれを祀った前記神廟に対して特殊の崇敬をはらうようになり、正保二年(一六四五年)一一月に、それまで東照社と呼ばれていた右神廟に対して宮号を勅賜し、ここに右東照社は、以後改めて東照宮と称されることとなり、次いで翌正保三年四月の東照宮の例大祭に際して勅使を発遣したが、これを契機に以後旧幕時代を通じて、日光例幣使として毎年勅使を派遣することが例となり、そのほか東照宮の重要な祭祀にあたっては、廃朝、恩赦、殺生禁断等の勅令を下したこと。

(五)、慶安四年(一六五一年)四月二〇日に徳川家光が薨去し、その遺命により霊柩は前記東照宮の鎮座する日光山に葬られ、また朝廷から同公に対して大猷院の追号が下賜されたが、やがて承応二年(一六五三年)に、右家光を祭祀する霊廟として、大猷院殿が右日光山内に造営されたこと。

がそれぞれ認められる。

以上によれば、東照宮は、単に前記満願寺をして家康の菩提を弔わせるための施設としてのみ創建されたものではなく、むしろ、家康の霊を神として祭祀することにその創建の目的があったとみられるし、また家光の時代に入ってからは、東照大権現は将軍家の守護神として幕府をはじめ朝廷や諸大名等からも特殊の崇敬をはらわれるようになり、東照宮は、将軍家の祖廟ないし家廟として幕府の威光を象徴する祭祀施設としての意義を有するに至ったとみることができる。

二、次に旧幕時代における東照宮の法主体性について考察する。

(一)、前記認定事実、ならびに≪証拠省略≫によれば、旧幕時代の日光には、同時代以前から存在していた満願寺、二荒山神社、また前記元和三年(一六一七年)と承応二年(一六五三年)に各創建された東照宮、大猷院という宗教的な物的施設が存在し、かつ右各施設においてそれぞれ宗教活動が営まれていたことが認められ、しかも以下に述べるとおり、これらの各施設は相互にかなり緊密な関係を維持していたとみられるので、以下本項において東照宮の法主体性を考察するにあたり、右の各宗教施設を総称して、これを日光山と呼ぶことにする。

(二)、ところで、すでにみてきたように、東照宮は、家康に対し東照大権現という神号を冠してこれを山王一実神道に準拠して祭祀するという目的から創建されたものであり、他方満願寺は、天台宗の寺院であるけれども、≪証拠省略≫によれば、右山王一実神道は、吉田神道や伊勢神道のように仏教と対抗して起ったものではなく、古くから我が国の宗教思想に定着していた本地垂迹説により仏教である天台宗において継承発展し、かつ東照宮創建当時は前記天海により主唱されていたものであること、また右の権現という称号も、その元来の意義は、仏または菩薩が衆生救済の方便として仮りに種々の身形をとって地上に現われるという仏教にある考え方から発したもので、それが前記本地垂迹説により、我が国に古くから信仰されていた諸神と結合して特殊の神号として発展したものであること、さらに当時においては、前記本地垂迹説にみられるような神仏混淆の考え方により、寺院内に神を祭祀するための施設を設けることがかなり広く行われていたこと、がそれぞれ認められ、従って、前記東照宮における祭祀の形式は、必ずしも満願寺におけるそれと対立するものではなく、むしろ融合していたとみられるし、また東照宮の祭祀の形式が神的なものであるということをもって、直ちにそれが満願寺とは別個の独立した人格を有する神社であると速断することはできないというべきである。

(三)、そこで次に、東照宮の組織について検討するに、≪証拠省略≫によると、

(1) 日光山全体は、東照宮創建当時は前記天海が、その後は右天海の後継である門跡(なお、天海とその跡を継いだ公海の二代は寺務と称されていたが、承応三年(一六五四年)に守澄法親王がこれを継ぎ、満願寺本院に輪王寺宮の勅号が下賜されたことにより門跡と称されるようになった)が、旧幕時代を通じてこれを総統し、そのもとに、右門跡の代理をつとめ、かつ満願寺の寺務を行なう学頭(院号は修学院)、東照宮の祭祀を行なう東照宮別当(院号は大楽院)、大猷院の祭祀を行なう大猷院別当(院号は龍光院)、および二荒山の祭祀を行なう二荒山別当(院号は安養院)がそれぞれ置かれ、さらに、満願寺には、右学頭のもとに衆徒(禅智院以下二〇院あった)、一坊(妙法院以下八〇坊あった)が、また東照宮には、右別当のもとに、社僧方と総称される手代出家、番僧、役僧、御倉役等と、社家方と総称される社家、楽人等がそれぞれ置かれ、しかも右東照宮別当と同社僧は、それぞれ満願寺衆徒および同一坊のうちから選任されていたこと。

(2) 前記門跡は、日光山全体を代表するとともに、以下に述べる制約のもとに、その経営に関する意思決定をし、かつこれを執行する権限を集中的に保有し、前記学頭や各別当は、いずれも右門跡の配下にあってこれを補佐しあるいはその監督のもとにそれぞれの職務に応じて寺務、祭祀を担当していたにすぎないこと。

(3) しかしながら、右門跡といえども自由に日光山の経営を行い得たわけではなく、右日光山のうち東照宮と大猷院の経営に関しては、幕府より他の社寺にみられないほど強い監督が加えられていたこと。

すなわち、幕府は、すでに承応二年(一六五三年)の大猷院創建に際して、幕府旗本の梶左兵衛定良を大猷院の守護に任命し、同人の門跡の指示下にではあるが、年貢勘定の立会、東照宮と大猷院の修理、日光山内の警備、および職員の監督等に関する権限を授与して間接的にその経営に対する監督を加えるとともに、右以前より、幕府の役人である目付、使番を派遣してその経営を監視させ、また元禄一三年(一七〇〇年)には、右梶左兵衛の引退とともに、日光奉行を創設してこれを幕府老中の支配下に置き、右梶左兵衛の有した権限をそのままこれに継承させたほか、すでに明暦元年(一六五五年)には日光山条々と題する、日光山ことに東照宮と大猷院の経営に関するかなり詳細な準則を発令するなど、直接、間接に強力な監督を加えていたこと。

がそれぞれ推認される。

以上によってみると、東照宮は、東照宮別当とその配下にある社僧および社家から成る組織により、その祭祀が行われていたけれども、そのうち別当と社僧は、満願寺所属の僧侶のうちから選任されていたから、その組織は満願寺の組織と密接不可分の関係にあったとみられるし、また日光山全体の経営については、形式的にではあっても、門跡が集中的にその権限を保有し、前記東照宮の組織が右門跡から独立してその経営に関する意思決定を行ったわけではないので、右東照宮の組織が、日光山全体の組織と別個の独立した団体を形成していたとみることはできない。

しかしながら、東照宮と大猷院の経営に関しては、前記門跡以下の組織が必ずしも主体的にその経営にあたっていたわけではなく、むしろ右経営については、幕府より他の社寺にはみられないほど強い監督、規制が行われていたことから考えると、右東照宮は、独立した財産として、財団的な性格を有する祭祀施設であると考える余地があるというべきである。

(四)、進んで、東照宮の管理運営について、特にその財政的基礎の点からこれをみるに、≪証拠省略≫を総合すると、

(1) すでに幕府(徳川家康)は、東照宮創建前の慶長一四年(一六〇九年)に、満願寺に対して先ず足尾村約六〇〇石を安堵し、次いで同一八年(一六一三年)には新たに同寺に対し、今市村七〇〇石を寄進していたこと。

(2) そして、前述のとおり、元和三年(一六一七年)には東照宮が創建されたので、これに伴って、幕府(秀忠)は、元和六年(一六二〇年)三月に、天海と、当時の満願寺の本院である光明院とにそれぞれ宛てた二通の寄進状を、時に同じくして発したこと。

すなわち、右天海宛の寄進状は、

東照大権現下野国 日光山社領事

都合五千石目録在 別紙

件之所々拾七ヶ村奉寄進之訖(以下省略)というものであり、また右光明院宛の寄進状は、

下野国日光山足尾村一円、如先規、草久村久加村之内以上七百石事、但、

東照宮大権現就于勧請、当山衆僧社家並門前屋舗地子等免之、其改替之地也、並今市村七百石事、相国新寄進之者、弥以不可有相違、共以可有全社納(以下省略)というものである。

そして右のうち、前者の寄進状は、東照宮が日光山に勧請されたことに伴って、その祭祀の用にあてるいわば神領として、湯西川村など一七箇村五〇〇〇石を、当時日光山を代表していた天海に宛てて寄進したものであり、後者の寄進状は、従来満願寺に対し寄進安堵していた足尾村約六〇〇石と今市村七〇〇石に、新たに草久村と久加村の七〇〇石を加えて、合計約二〇〇〇石を、満願寺の用にあてるいわば寺領として、その本院である光明院に宛てて寄進安堵したものであること。

(3) ところが、寛永一一年(一六三四年)五月に、幕府(家光)は、前記二通の寄進状を合してこれを一本化し、

日光山

東照大権現御領並日光領、下野国之内、弐拾弐箇村都合七千石事目録在 別紙

如前々令寄進之畢、(以下省略)

との寄進状(後述のとおり実質は安堵状)を発し、これによって、前記神領にあたるものを東照大権現御領とし、寺領にあたるものを日光領として名称のうえでは一応区別されているけれども、その内容は、右両者を加えた二二箇村(前記草久村が上下二村に分れたとみられる)合計七〇〇〇石を一括して天海に宛てて日光山に対し安堵するというものであるから、前記神領と寺領との区別がかなり不明確になり、さらに、前記承応二年(一六五三年)の大猷院創建に伴って、幕府(家綱)は、明暦元年(一六五五年)九月に、

下野国日光山

東照大権現宮領一万石

大猷院領三千六百石余都合一万三千六百石余目録在 別紙事、寄進之畢、(以下省略)

との寄進状を発し、これにより、前記東照大権現御領(神領)と日光領(寺領)とを合わせて東照大権現宮領と総称し、従来の七〇〇〇石に新たに三〇〇〇石を加えて一万石とし、ここに右神領と寺領との区別は全く解消して両者は一体化し、また右大猷院の創建に伴って、新たに大猷院領として三六〇〇石余を寄進し、ここに、合計七七箇村一万三六〇〇石余の領地が、門跡である法親王に宛てて寄進安堵されることとなり、以後旧幕時代を通じて、右石高の増加が行われたほかは右と同様の状態が継続していたこと。

(4) しかしながら、右のように神領にあたる部分と寺領にあたる部分とが、右寄進状のうえで渾然一体となったとはいっても、これによって日光山の経営にあたっていた前記門跡以下の組織が自由に右領高を分配使用し得たわけではなく、幕府は、右一体化に伴って、前記寄進状と同時に配当目録を発してその使途を詳細にわたって規制し、これによって東照宮の祭祀、修理、および右祭祀に従事する職員の俸給等その管理運営に要する財源が確実に確保されるような方策を講じていたこと。

がそれぞれ認められる。

以上に認定したところを総合して判断すると、東照宮創建の目的は、単に家康の菩提を弔うことのみにあったのではなく、むしろこれを神として祭祀することにあり、また幕府は、東照宮を将軍家の祖廟ないし家廟といういわば公的な祭祀施設として取扱い、その経営は一応は前記門跡以下の日光山の組織に担当させてはいたけれども、右経営に要する財源の確保に十分考慮を払うとともに、右経営に対して強い監督規制を加えて右の組織による自由な運営を許さなかったとみられるから、結局右東照宮は、当時の通常の神社とはかなり性格を異にするものであったとしても、一種の財団的な性格を有する祭祀施設として独立の権利主体であったとみることができる。

第三、旧幕時代における本件各物件の帰属

≪証拠省略≫によれば、本件各物件のうち、本地堂、護摩堂、一切経蔵、鐘楼、および鼓楼は、いずれも前記寛永一一年(一六三四年)から同一三年(一六三六年)にかけての幕府による東照宮の大造替事業において建造されたものであり、虫喰鐘堂は、寛永二〇年(一六四二年)に朝鮮国王仁祖が東照宮に朝鮮鐘と称される釣鐘を献納したので、そのころ幕府がこれを釣るための建物として東照宮のために建造したものであり、また五重塔は、慶安三年(一六五〇年)一二月に若狭国主の酒井忠勝が五重塔を建造して東照宮に献納したところ、文化一二年(一八一五年)一〇月にこれが焼失したので、同一四年(一八一七年)八月に、右忠勝の子孫である酒井忠進がこれを再建し、改めて東営宮に対して献納したものであることがそれぞれ認められ、従って、本件各物件は、その完成と同時に、またはその直後に、いずれも原告東照宮に帰属したとみることができる。

第四、明治初年の神仏分離

一、≪証拠省略≫によれば、

(一)、慶応三年(一八六七年)一二月に王政復古を実現した維新政府は、祭政を一致し天祖以来の固有の皇道を復古するというその基本的な施政方針にもとづき、宗教に対しても積極的な政策を打ち出し、明治元年三月より、我が国の宗教界に古くから定着し、また民間にも深く浸透していた神仏混淆の習俗を改めて、神的なものと仏的なものとを分離するという神仏分離政策の実行に着手し、神仏分離令と総称される左記の諸法令を発したこと。

(1)、太政官布告 明治元年三月一三日。

此度、王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇御再興御造立ノ上、追々諸祭奠モ可被為興儀被仰出候、依テ此旨五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下ノ儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、弥宜祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候間、官位ヲ初、諸事万端同官ヘ願立候様可相心得候事(以下省略)

(2)、神祇事務局達 同年三月一七日。

今般王政復古、旧幣御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧杯ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍テ此段可相心得候事(以下省略)

(3)、太政官布告 同年三月二八日。

一  中古以来某権現或ハ牛頭大王之類、其外仏語ヲ以テ神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社ノ由緒委細ニ書付、早々申出候事

但勅裁ノ神社、御宸翰、勅額等有之候向ハ是又可伺出、其上ニテ御沙汰可有之候、其余之社ハ裁判所、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事

一  仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事

附、本地杯ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事

(4)、太政官布告 同年四月一〇日。

諸国大小之神社中、仏像ヲ以テ神体ト致シ、又ハ本地杯ト唱ヘ仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等差置候分ハ、早々取除相改可申旨、過日被出仰候、然ル処、旧来社人僧侶不相善、氷炭之如ク候ニ付、今日ニ至リ神人共俄ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ、実ハ私憤ヲ霽シ候様之所行出来候テハ、御政道之妨ヲ生シ候、而己ナラズ紛擾ヲ引起可申ハ必然ニ候、左様相成候テハ、実ニ不相済儀ニ付、厚ク令顧慮、緩急宜ヲ考ヘ、穏ニ可取扱ハ勿論、僧侶共ニ至リ候テモ、生業ノ道ヲ不失、益国家之御用相立候様精々可心掛候、且神社中ニ有之候仏像仏具等取除候分タリトモ、一々取計向伺出、御差図可受候、若以来心得違致シ、粗暴ノ振舞等有之ハ屹度曲事可被仰出候事(以下省略)

(5)、太政官達 同年四月一三日。

来ル一八日、日吉祭ニ付、是迄山門(延暦寺)ヨリ伺万端仕来リ候得共、今般御一新之上ハ、更ニ於一社(日吉神社)祭式執行候間、此段為心得相達候事

(6)、太政官達 同年四月二四日。

此度大政御一新ニ付、石清水、宇佐、筥崎等、八幡大菩薩之称号被為止、八幡大神ト奉称候様被仰出候事

(7)、太政官布告 同年閏四月四日。

今般諸国大小ノ神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御廃止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗之上神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若又無拠差支有之、且ハ仏教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ神勤相止、立退可申候事(以下省略)

(8)、行政官布告 同年九月一八日。

神仏混淆不致様先達テ御布令有之候得共、破仏之御趣意ニハ決テ無之候処、僧ニ於テ妄ニ復飾之儀願出候者往々有之不謂事ニ候、若モ他之技芸有之国家ニ益スル儀ニテ還俗致度事ニ候ヘハ、其能御取調之上御聞届モ可有之候ヘ共、仏門ニテ蓄髪致シ候儀ハ不相成間、必得達無之様、御沙汰候事

(9)、御沙汰 同年一〇月一八日。

王政復古更始維新之折柄、神仏混淆之儀御廃止被仰出候処、於其宗(法華宗)ハ、従来三十番神ト称シ、皇祖大神ヲ奉始、其他ノ神祇ヲ配祀シ、且曼陀羅ト唱ヘ候内ヘ、天照皇大神八幡大神等之御神号ヲ書加ヘ、剰ヘ死体ニ相著セ候経帷子ニモ神号ヲ相認候事、実ニ不謂次第ニ付、向後禁止被仰出候間、総テ神祇之称号決テ相混シ不申様、屹度相心得、宗派末々迄不洩様可相達旨御沙汰事

但是迄祭来候神像等於其宗派設候分ハ、速ニ可致焼却候、又由緒有之往古ヨリ在来之分ヲ相祭候類ハ、夫々取調、神祇官ヘ可伺出候事

すなわち、維新政府は、右諸法令によって、先ず政府に神祇官を置き、全国の神社における神主以下の神官はすべて右神祇官に附属すべきこととして、神祇尊重の原則を表明し(右(1)の法令)、次いで、神社において別当または社僧と称して僧形で神勤していた者に対し、還俗のうえで神勤をするかまたは仏教信仰のために還俗できない者は神社から立退くべき旨を命じ(右(2)および(7)の法令)、さらに、権現、菩薩、牛頭大王などの仏語をもって神号とし、または仏像をもって神体となすことを禁止するとともに、神社内の仏具類の除去や、寺院において神を祭祀することの廃止を命じ(右の(3)、(5)、(6)、および(9)の各法令)、これによって、前記神仏分離の方針を明瞭に打ち出すとともに、他方では、右神仏分離は排仏の趣旨ではないことを明らかにし、社人側が粗暴な処置をとることや僧侶がみだりに還俗することを戒めている(右(4)および(8)の法令)。

(二)、ところで、右各証拠によれば、当時の政府が、右神仏分離を実施するにあたっては、必ずしも右の神仏分離令に準拠した処分のみを行ったわけではなく、少なくとも神的なものと仏的なものを分離するために必要な限度においては、右諸法令に準拠しないような処分、例えば神社境内の仏的建造物を破壊、除去させる処分などをも行ったこと、またその際、政府は、社寺の財産に対しては、必ずしも私人の財産に対するほどには、これを尊重することなく、かなり積極的かつ強力にその公権力を行使したこと。

がそれぞれ認められる。

二、そこで、右神仏分離が実施された状況を概見するに、前記各証拠によると、

(一)、右実施の初期においては、神祇官所属の官吏や地方官、あるいは社寺関係者によって、仏堂をはじめ仏像、経巻、法具等の破壊、焼棄、ないし売却や、寺院の整理廃絶等の過激な排仏毀釈が行われ、これに対し、政府は、前記明治元年四月一〇日付太政官布告にあるように、神仏分離の実施を慎重すべき旨を命じ、またその意は排仏に非ずということを表明してはいたが、当初はそれ以上の強い取締や監督を加えることなく、各地方からの寺院廃絶の伺に対しこれをほとんど許可するなど、むしろ右のような傾向を容認していたともみられるのであるが、やがて寺院僧侶の苦情が高まり、また信者の反抗運動が起って時にはそれが暴動におよぶようなこともあったために、政府は、明治三年末ごろから同五年にかけて、次々と布告(明治三年一二月二四日付、同四年三月二八日付、同年四月九日付等)を発して、私人や地方官が濫りに神仏分離を断行することを禁止してその取扱いの詳細を政府に伺い出さしめることとして、その実施につき慎重さを加えるようになり、そのために極端な排仏運動は、以後次第に影をひそめるようになった。

(二)、しかし、政府の神仏分離政策は、右以後も引続きその積極的な関与のもとに強力に推進され、これによって、全国のほとんどすべての神社において、仏的要素の除去が行われたが、ただ、特殊な事情によって、仏的建造物がそのまま境内に存置されるような例外的な措置のとられた神社(例えば、山形県出羽三山神社の五重塔、埼玉県金鑚神社の多宝塔、愛知県知立神社の多宝塔、広島県厳島神社の五重塔など)も若干存在すること。

がそれぞれ認められる。

そして、日光における神仏分離は、後に述べるとおり、他の地方に比べてかなり遅れて実施されたために、排仏毀釈はほとんど行われず、また神社の境内に仏的建造物が存置された右の例外的な事例にもあたっているのである。

第五、日光における神仏分離

一、先ず、神仏分離実施前の状況をみるに、≪証拠省略≫によれば、

(一)、慶応四年(一八六八年)一月に戌辰戦争が勃発し、同年五月に、幕府軍は彰義隊を組織し、上野東叡山寛永寺において、当時同寺に住し満願寺の門跡であった公現法親王を擁して官軍に抗戦したが敗走し、また日光においても、同年四月下旬に、幕軍と官軍とが対峠するという事態が生じ、これは満願寺の僧侶らの説得等により衝突は避けられたが、同年八月に、右彰義隊の事件のために、前記東照大権現宮領(御神領)と大猷院領(御霊屋領)は、明治四年の社寺上知令に先立って政府に上知され、真岡県知事の鍋島道太郎(後に幹と改称)をして右領地を支配せしめることとなり、また明治二年一〇月に、右公現法親王はその生家である伏見宮に復籍し、満願寺の本院に下賜されていた輪王寺の称号は廃止されたこと。(なお、右輪王寺の号は、明治一六年一〇月に復称されるに至った。)

(二)、明治元年九月に、右真岡県知事は、太政官宛に、日光山の取扱いにつき届書を提出しているが、これによると、日光山所属の僧侶、社人等について、応急の措置として当分従来通り処置する旨を届出ているにとどまり、神仏分離の点については触れられていないし、また明治二年二月には、神祇官より弁官(太政官所属の官吏)宛に、日光山内の徳川家康廟所(東照宮のこと)の処分に関する伺と、これに対する右弁官の指令が、さらに同年一一月には、弁官から神祇官に対する右の点に関する掛合いと、これに対する神祇官の回答がそれぞれなされているが、右によると、東照宮を独立の神社として取扱うべきこと、またこれについて神仏混淆の点は仏具等を除去して判然とさせるべき旨の一般的な方針が政府部内において決定されたにとどまり、神仏分離の具体的な方策は、日光県(明治二年二月に置かれ、同年七月に真岡県を合せた)知事からの具申をまって指令することとされたこと。

(三)、しかして、明治三年一二月に、日光県知事鍋島道太郎は、弁官宛に、「二荒山神社並東照宮及満願寺処分の件」と題する伺書を提出し、

(1)、日光における神仏分離を速やかに処置せられたきこと。

(2)、二荒山神社と東照宮に対し祭典料(神領米)を、また満願寺に対し寺領米をそれぞれ下賜されたきこと。

(3)、従来からの東照宮と満願寺との関係はこれを廃止し、右両者を完全に分離すべきこと。

(4)、満願寺の僧侶は、これまでのように各院坊に分住せず、これを一院に集住させ、社人(社家)は、これまでどおり二荒山神社と東照宮に兼務することとし、楽人や神人は、扶助金を下して農商に復帰させること。

などを具申し、これに対して弁官は、すべて右伺いのとおりに許可するとともに、右の神仏分離に関して、堂塔を毀すか毀さないかについては、図面をもってさらに伺い出るべきことを指令したこと。

が認められる。

すなわち、ここにはじめて、日光山における神仏分離が、具体的に実行される段階に達したわけである。

二、次に、神仏分離の実施された状況をみるに、

(一)、≪証拠省略≫によると、

(1)、明治四年一月八日、日光県知事鍋島道太郎は、日光に神仏分離の官命を下し、

(Ⅰ)、僧侶の神勤を廃止すること。

(Ⅱ)、神地と仏地とを明確に区分し、神地内の仏堂は満願寺の境内に移遷すること。

(Ⅲ)、二荒山神社(新宮、本宮)と東照宮は、いずれも神に属するが故に、社家に引渡すべきこと。

(Ⅳ)、満願寺の各院寺を一本坊に合併し、他はすべて上知すること。

を、当時の日光山の管理主体であった衆徒らに命じたこと。

(2)、そして右の官命を契機として、日光における神仏分離が開始され、弁官と緊密な連絡をとりつつ分離実施の衝にあたった県知事や県官の積極的な指示、関与のもとに、先ず右直後に、東照宮と二荒山神社に勤務することとなる社司(旧社家がこれにあてられた)が任命されるとともに、僧侶の神勤が廃止され、ここに先ず神勤者と仏者との区分が行われ、次いで同年二月二八日に、東照宮本殿と二荒山神社本宮が、その旧管理者である衆徒から新たに管理主体となる社司に引渡され、ここに東照宮と二荒山神社につきその管理主体の交替が行われ、また同年二月から三月にかけて、動産に関して神物と仏物との区分がなされ、三月には仏像、経巻、仏具等の仏物で神社内にあったものは満願寺が引取ってそこから搬出し、なおこれより先の同年一月に、大猷院は満願寺に帰属することが決定されたが、同年五月二日には、東照宮別院の大楽院と、二荒山別院の安養院とが社司に引渡され、さらに、同年七月に、弁官の指令にもとずいて、神地(東照宮と二荒山神社の境内)と仏地(満願寺の境内)との区分が行われたこと。

がそれぞれ認められる。

右によれば、日光においても、政府、地方長官の積極的かつ強力な関与のもとに神仏分離が次々と実施され、神地内の仏堂を移遷する問題を除き、明治四年七月ごろまでには、一応右分離を完了したとみられるが、右の仏堂移遷の問題については、次に述べるとおり、その実施が遅延するうちに、特殊な取扱いが行われるようになるのである。

(二)、そこで、右神地内の仏堂につき神仏分離が実施された経緯の概略を、ここでひととおりみておくことにする。すなわち≪証拠省略≫を総合すると、

(1)、前記のとおり、日光県知事は、日光において神仏分離を実施するにあたり、神社境内の仏的建造物については、これを破壊する方針はとらずに、満願寺の境内に移遷することを一般的に命じているが、以下に認定するとおり、後に満願寺から栃木県令(明治四年一一月に日光県は他の五県と合併して栃木県と改称した)に対しその移遷の延期や据置を願い出ていることから明らかなように、右分離着手後まもなく、県知事は満願寺に対して、具体的に、本件各物件をはじめ三仏堂、相輪棠、立木観音堂、妙見堂、阿弥陀堂などの東照宮、二荒山神社境内にある仏的建造物について、これを満願寺の境内に移遷することを命じたこと。

(2)、ところが、満願寺は、すでに慶応四年の前記大権現宮領の上知によりその経済的基礎を失っていたうえ、右神仏分離が実施されたこともかなりの打撃となり、さらに明治四年五月には、本坊の焼失という災難も加わって極度に窮乏していたので、右移遷を直ちに実行することは不可能であったために、そのころ日光県知事に対し、右移遷を三年間延期することを願い出て許可されたこと、しかしその後も右窮状は改善せず、これを打開するために行った出開張の試みも失敗に帰したために、移遷に着手しないままに右期間を徒過し、その結果、明治六年一二月に、再び栃木県令に対して、移遷すべき前記堂塔のうち、一部は計画を立ててこれによりすみやかに移遷を実行するが、その余の堂塔についてはさらに三年間移遷を延期されたき旨を願い出て、これを許可されたこと。

(3)、そして明治七年三月に、満願寺は、県令に対して、前記移遷を命じられた諸堂塔のうち、本件物件の五重塔、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂は、東照宮神廟荘飾のためそのまま措置とされたいこと、また三仏堂、常念仏堂、および諸小堂は、取毀しのうえ銅物等を売却してその代金を移遷費用にあてたいこと、そして本件物件の本地堂、一切経蔵、護摩堂を含むその他の堂宇は、順次移遷を実行したいことをそれぞれ願い出たこと、これに対して県令は、同年四月一三日に、本地堂を移遷する件は許可しないが、その他についてはいずれも願のとおり聞届ける旨を指令したこと。

(4)、そこで満願寺は、右指令にもとずき、明治八年三月に相輪棠をその境内に移遷し、次いで明治九年一月に、同寺の本坊に予定していた前記本地堂の移遷が不許可となった関係から三仏堂をこれにあてることにして、これを減縮して境内に移築したき旨を県令に願い出たところ、同年二月に許可されたので、同年五月にその工事に着手したが、他方、移遷が具体化されるにおよんで、これを感知した日光町民は、右移遷による堂塔の取毀しが行われると日光の衰微を招くことは必定であるとして右移遷計画に猛烈に反対し、諸堂宇を据置くべき旨を関係者に愁訴し、また同年六月の明治天皇の東北御巡幸の際に満願寺が行在所に定められたが、これに同行して右三仏堂の取毀されるのを実見した木戸孝允は、その保存のために尽力し、その結果右三仏堂は、明治一二年七月に、減縮されることなく旧観のままで満願寺の境内に移築されるに至った。そして以上の事情が背景となって、明治九年八月に、満願寺は県令に対して、本件物件の一切経蔵と護摩堂の永久据置を願い出て、同年一一月に許可され、これにより本件各物件はすべて東照宮の境内に存置されることとなり、また、右と前後して、移遷を予定されていた立木観音堂、妙見堂、阿弥陀堂などの諸堂宇も、そのまま旧来の地に存置されることに決定したこと。

(5)、さらに、明治一三年から同一四年にかけて、東照宮と満願寺との間で種々協議、議定が行われ、またこれにもとずく県令に対する出願が許可されたために、本件物件の本地堂、五重塔、および一切経蔵において、満願寺による仏事執行が再開されるようになり、他方、明治一三年四月に、東照宮から内務卿に対する社務所移転伺が許可されたことにより、本件物件の護摩堂は、東照宮の社務所として使用されるようになったこと。

がそれぞれ認められる。

第六、神仏分離後における本件各物件の帰属

一、本件各物件に対する移遷命令

(一)、前記認定のとおり、本件各物件は、明治四年の神仏分離実施後まもなく、県知事より被告(満願寺)に対して、その境内に移遷すべき旨が命じられているから、ここで先ず右移遷命令の性質につき判断するに、前記神仏分離令には社寺の建造物の取扱いについて直接触れられてはいないが、≪証拠省略≫によると、明治元年一一月二五日付の藩ないし県から政府に対し提出された「社寺復飾等之儀取扱方窺書」と、同年一二月四日付の右窺書に対する附札には、

一  社地ニ有之候観音不動其外仏体之堂並寺院境内ニ有之候稲荷其外之神社ハ、為取払候筋ニ御座候哉、又ハ社ハ神職ノ方ヘ、堂ハ寺院ノ方ヘ相互ニ譲リ渡、遷座取計候而不苦候哉

但、境内場広ニ而社寺共其侭差置、地之境界ヲ分ケ候ハ不苦義ニ候哉

御附札

伺之通タルヘキ事

但書、仮令場広ニ候共、社内之寺院ハ必取除可申事

とあり、これによると、神社境内にある仏的建造物は必ず取除くこと、そしてその場合には、建造物を破壊して取払うほかに、寺院に譲り渡して遷座すること、すなわち建造物の所有ならびに占有を寺院に移転したうえ、これを神社境内から寺院の境内に移動させる取扱いをしても差支えないとされていること、また、神仏分離の実施にあたって、建造物に対しては、右窺書と附札にあるような取扱いが通常なされていたことがそれぞれ認められる。

なお、当時の政府や地方長官が神仏分離を実施するにあたり、右分離のために必要な限りにおいては、社寺の財産権を必ずしも十分に尊重することなく、かなり強力にその公権力を行使したことは既に説示したところであるが、右仏的建造物の遷座の場合に、その所有ならびに占有を寺院に移転させることは、神的なものと仏的なものとを判然分離させるという神仏分離政策を実施するために当然必要な措置であったとみなければならないし、また前記のとおり、神仏分離を実施するにあたり社寺の建造物を破壊して取払わせるような処分を行っていた当時の政府が(なお、前記明治三年一二月の日光県知事の伺に対する弁官の指令によっても、当時の政府がそのような権限を有していたことが推認できる)、これを譲り渡しのうえ遷座させる権限をも有していたとしても、何等異とするに足りないというべきである。

(二)、そこで、これを本件の場合について考えるに、前記のとおり、日光県知事は、神地内の本件各物件を、破壊する方針はとらずに、被告に対してその境内に移遷することを命じており、また、≪証拠省略≫によると、被告は、明治六年一二月と翌七年三月の二回にわたり、栃木県令鍋島幹に対して、本件各物件をはじめとする東照宮、二荒山神社各境内の前記移遷を命じられた仏的建造物に関して、その移遷計画を立案した願書を提出し、そのうち前者の願書は書類不備のため受理されなかったが、後者の願書は受理されてこれに対する指令が発せられているところ、右願書の冒頭には、

去ル明治四年辛未年当山御所置之砌、僧侶ヘ御渡シ被下置候神地内之仏堂移遷之義、奉願上候通、別紙絵図面ヲ以テ詳細申上候、(以下省略)

となり、また右願書に添付された副願書にも、本件各物件のうち五重塔、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂について、

右三廉者、去ル明治辛未年、僧侶ニ御渡シ被下置候事ニハ御座候得共(以下省略)

との記載があること、さらに被告は、明治九年八月に、県令に対し、本件各物件のうち一切経蔵と護摩堂について、その据置を願い出てこれが許可されているが、その願書の冒頭にも、

先年日光山神仏判然御所置之砌、東照宮神地内之輪蔵護摩ノ両堂、其外中宮祠内之諸堂宇等、僧侶ヘ御渡ニ相成、当寺所轄之地所ヘ移遷可仕筈之処、(以下省略)

との記載のあることがそれぞれ認められる。そして、右に認定したところを、≪証拠省略≫に照して考えると、本件各物件は、いずれも明治四年に神仏分離が実施された際に、日光県知事により、「僧侶」すなわち被告に対し、「御渡シ被下置」かれたうえで、その移遷が命じられたことが推認され、また右の「御渡シ被下置」とは、前記明治元年の窺書と附札にある「譲り渡」と同様に、その所有ならびに占有の移転を意味することが明らかである。

なお、後に説示するとおり、本件各物件の移遷や据置に関する出願は、すべて被告から単独で行われ、かつこれを受理した県令においても、右の件については被告に対してのみ出願権を認めていたと解されるし、また前記各願書のほか、明治七年四月五日付の教部省から原告に対する示達書においても、本件各物件について、単なる場所的な移転を命ずる「引移」の処分のほかに、その所有と占有の移転を命ずる「引渡」の処分が行われたことが推認され、これらの事実も、右に認定したところを裏付けるに足るとみることができる。

従って、本件各物件は、いずれも明治四年の日光における神仏分離実施後まもなく、日光県知事による一種の形成的な処分によって、原告(東照宮)から被告(満願寺)に対して、その所有ならびに占有の移転が行われたというべきである。

二、本件各物件の据置

(一)、先ず、本地堂、五重塔、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂の据置についてみるに、

(1)、前記のとおり、被告は、本件各物件をはじめ、東照宮、二荒山神社の各境内の仏的建造物につき、県知事によりその移遷が命じられていながらも、経済的窮乏などのためにその実行を引き延ばしていたわけであるが、≪証拠省略≫によると、

(Ⅰ)、明治六年一二月に至り、被告はようやく前記移遷を命じられていた仏的建造物につき移遷計画を立てて、栃木県令に対し「諸堂移遷目論試之事」と題する願書を提出したこと、しかし右願書は書類が不備であったため、栃木県令は、

詳細絵図面相認、可申出事、

と回答し、その内容については審査しなかったこと。

(Ⅱ)、そこで、翌明治七年三月に、被告は書類を整備したうえ改めて県令に対し、右願書とほぼ同じ内容の「奉願日光山諸堂移遷事」とこれに添付した「諸堂移遷副願之事」と題する願書を提出し、

(イ)、本件物件の五重塔、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂は、東照宮神廟荘飾のためにそのまま差置かれたきこと。

(ロ)、本件外物件の三仏堂、常念仏堂、その他二荒山神社境内の諸小堂は、取毀したうえ銅物等を売却しその代金を移遷の費用に使用したきこと。

(ハ)、本件物件の本地堂、一切経蔵、護摩堂、および本件外物件の相輪棠は、いずれも満願寺の境内に、立木観音堂、妙見堂は、南歌ヶ浜に、また阿弥陀堂、不動堂は、別に地所を見立てて、それぞれ移遷命令どおりに移したきこと。

を願い出たこと。

(Ⅲ)、他方、原告も、同年三月三日付で栃木県令に対し、本件各物件および本件外物件の相輪棠について、

右ハ 来東照宮ヘ徳川家ヨリ寄進、旧諸候ヨリ献備之御品々ニ而、御一新の砌、神仏混淆不相成訳ヲ以、仏体ハ満願寺ヘ引移候ヘモ、既ニ芝旧増上寺本堂ヲ以大教院ト被定、四柱大神御安座、神官僧侶協議、七宗祖師画像掛軸等許可相成候趣、旁以当社本地堂其外共、是迄通リ、御据置相成候様致度、右満願寺引移候而ハ、当市中ハ勿論、今市、鹿沼、宇都宮辺迄モ気合ニ拘リ、騒気立可申、就而ハ先宮司教部省伺済別紙ノ相添、此段相伺候也

として、右物件全部を東照宮の境内に据置かれたき旨の伺書を提出したこと。

(Ⅳ)、そして、栃木県令は、右の件をいかに取扱うべきかにつき教部省に伺出てその指令を受けたうえ、同年四月一二日に、被告からの前記出願に対しては、

本地堂ヲ除之外、願之通聞届候事、

と指令したこと、他方、原告の前記伺については、これに対する指令の存在を窺い得る証拠はなく、ただ同年四月五日に、教部省から原告に対して、

其神社地内之堂塔等、兼而満願寺ヘ引渡有之候分、今般引移並据置方之義ニ付、別紙之通願出候趣ヲ以、地方官ヨリ伺出有之、依テ当時説教所ニ相用候本地堂ヲ除之外、願之通聞届旨、及指令候条、為心得此旨相達候事、(以下省略)

との示達があったこと、また同月一三日に、栃木県令から原告に対し、

満願寺ヨリ願出候堂塔移遷之義、別紙朱書之通許可候条、為心得及通達候間、移遷着手之節支障無之様、注意可致候也、

との示達があったこと。

がそれぞれ認められる。

右によれば、本件各物件の移遷または据置に関する原、被告双方の出願に対して、栃木県令は教部省の指令にもとずき、被告からの出願に対してのみ指令を発し、原告に対しては、被告の出願に対する指令を通知するという形式の示達を発しているにすぎないとみることができる。

そして、右被告の出願に対する栃木県令の聞届の指令により、本件各物件のうち、一切経蔵と護摩堂は、従前の方針どおり満願寺境内に移遷すべきこととされたが、五重塔、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂は、東照宮の境内に据置かれることに決定したとみることができる。

(2)、ところで、本地堂については、右聞届の指令から除外されているが、この点について、≪証拠省略≫によると、

(Ⅰ)、明治政府は、その宗教政策として、一方ではすでにみてきたように神仏分離を実施したが、他方では、明治三年一月三日に大教宣布の詔を発して祭政一致の道を広く国民に体得せしめるための神道、皇道による大教宣布運動を大々的に開始し、明治五年四月二五日に教導職を定めて神仏各派の神官、僧侶をこれにあて、同月二八日には三条の教則を発表し、これにより全国の神社、寺院において神官、僧侶をして右教則に則りその氏子、檀家を広く説教せしめることとされたこと。

(Ⅱ)、しかして、原告は、前記被告の移遷願に先立って、明治六年一〇月四日付で教部省に対し、

旧本地堂ヲ説教所ニ相用、説教之節、中央四柱大神ヲ祭リ、大教院之通リ、神官僧侶交席ニ説教仕候而モ宜敷候哉、

として、本地堂を右の大教宣布のための説教所として使用したき旨の伺を単独にて提出し、同月二〇日に教部省より、右伺に対し、

伺之通

との指令が下され、これにより本地堂は、右説教所として使用されていたこと。

がそれぞれ認められ、また前記のとおり、明治七年四月五日の教部省から原告に対する示達において、

依テ当時説教所ニ相用候本地堂ヲ除之外、願之通聞届旨、

と述べられているから、以上を考えあわせると、本地堂について、前記被告の移遷願に対して聞届の指令が下されなかったのは、当時同堂が大教宣布のための説教所として使用されていたことによるものであることが明らかであり、またこの点について、後に述べるとおり、明治九年一月一八日付の被告から栃木県令に対する「諸堂移遷方法改革之事」という願書に、

東照宮元本地堂を説教所として、当分其侭差置候に付ては、(抜粋)

との文言が見出されるから、右聞届指令の下されなかったことをもって、同堂を直ちに移遷したいとの被告の出願を一旦不許可としたものと解することはできるけれども、これをもって従来からの移遷命令を全面的に取消し、同堂を東照宮境内に据置くことを最終的に命じたものとまでみることは困難である。

ただ後述のとおり、栃木県令は、明治九年一一月に、移遷の予定されていた前記一切経蔵と護摩堂について、被告からの据置願を聞届け、さらに明治一三年一一月には、原、被告双方の出願にもとずき、本地堂での仏事執行を許可するとして、同堂の据置を前提とした指令を発しているから、このころまでには、県令において、被告の移遷義務を黙示に免除し、同堂を、他の本件物件と同様に東照宮神廟荘飾の目的で、その境内に据置くことを最終的に決定したとみることができる。

(3)、なお、前記のとおり、本地堂を説教所として使用する件について、原告は教部省に対して単独で伺を提出し、また教部省でもこれをそのまま認めているけれども、≪証拠省略≫によれば、前記明治七年四月の被告の出願に対する指令が発せられた際に、教部省から原告に対する前記明治七年四月五日の示達の但書には、

但、本地堂之義、其侭据置、向後トモ神官僧侶説教所ニ相用度義ニ候ハバ、満願寺申合之上、連署ヲ以更ニ可申立候事、

とあり、これによると教部省は、以後本地堂を説教所として使用する場合には、被告と申し合わせのうえ連署をもって改めて伺い出ることとして、右のような原告の単独出願による取扱いを取消したものとみることができるから、右の単独出願の事実をもって、本地堂につき原告に出願権があったと解することはできない。

以上によれば、五重塔、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂は、明治七年四月一二日に、被告の右堂塔についての据置願に対する栃木県令の聞届の指令により、また本地堂は、被告の同堂についての移遷願が右県令の指令において聞届けられなかったために、当分の間据置となり、その後、事情が変更して同堂につき被告の移遷義務が免除されたことにより、右いずれも東照宮の境内に据置かれることになったわけである。

(二)、次に、一切経蔵と護摩堂の据置についてみるに、前記認定のとおり、右二堂は、明治七年四月の県令から被告に対する指令においても、従来からの方針どおり満願寺境内に移遷すべきこととされていたわけであるが、≪証拠省略≫によれば、

(1)、明治九年一月一八日に、被告は栃木県令に対し「諸堂移遷方法改革之事」との願書を提出し、

一、三仏堂壱宇者、諸堂移遷手宛として全分沽却之筈、既に御允許を蒙り候処、東照宮元本地堂を説教所として当分其侭差置候に付ては、本堂並に三仏像安置之場所に差支候間、兼而昨年中も奉願候通、三仏堂を九間半四面に減縮いたし、当寺境内へ遷築仕度候事、

一、東照宮仮殿地内に有之候時鐘義者、常住之法用差支不少候間、兼而伺済之通、速かに当寺境内に相移度候事、

一、元中禅寺境内之観音堂、妙見堂、戒壇堂、護摩堂、並に滝尾山諸堂塔移遷等之義者、都而従前御指令之通、取計度候事、

として、三仏堂について、本堂にあてる予定の本地堂が前記のとおり当分据置となったので、取毀しのうえ売却することになっていた三仏堂を本堂兼仏像安置場所として減縮して満願寺境内に移築したきこと、また東照宮仮殿地内の釣鐘堂と二荒山神社境内の観音堂などの諸堂塔について、いずれもかねて伺済または指令のとおり移遷したきことをそれぞれ願い出るとともに、一切経蔵と護摩堂の二堂について、

一、東照宮護摩堂之義者、当寺境内へ可相移之処、御本社間近之場所に有之、取崩持運共、別而入費相嵩可申候間、前条之通、三仏堂を致縮遷候に付、各堂移遷之手宛、莫大之減少に相成、夫々遷地之成功無覚束、心配仕候間、追而右入費目途確に相立候迄、当今之振合を以差置被下度候事、

一、輪蔵之義、当境内へ可相移筈之処、是亦入費之目途致確定迄、当今之振合を以、其侭御差置被下、毎年経巻蠧壊之為、蔵経転読仕度、尤遷地資財之目途相立候上者、右経蔵之義、改而大猷霊廟仁王門内へ相移度候事、

として、その移遷費用の目途のつくまで当分据置かれたきこと、また右経蔵内の経巻の虫損を防ぐためにその転読をいたしたきことを願い出たこと、これに対し栃木県令は、同年二月二七日に、

諸堂移遷方法改革之義、願之通聞届候事、但、輪蔵護摩堂、当分据置候共、蔵経転読之義ハ難聞届候条、三仏堂移遷之上ハ、右二堂之仏像経巻共、悉皆引移可申事、

として、右出願のうち、経巻の転読は許さないが他はすべて聞届ける、また三仏堂移遷のうえは、一切経蔵と護摩堂の仏像、経巻はすべてそこに移すことと指令したこと。

(2)、次いで同年八月に、被告は栃木県令に対し、「東照宮地内之二堂置据願」との願書により、

先年日光山神仏判然御所置之砌、東照宮神地内之輪蔵護摩ノ両堂、其外中宮祠内之諸堂宇等、僧侶ヘ御渡ニ相成、当寺所轄之地所ヘ移遷可仕筈之処、東照宮神廟之義者、海外ニモ稀成美観完全之一宮地、殊ニ両堂之義者、百工手ヲ尽シ候盛大之荘観ニテ、移遷之入費モ莫大之金高相嵩、容易ニ成功行届兼候義ト従来心配モ不少候処、這回厚聖慮ヲ以、三仏堂移遷之義、不失旧観様被仰出、無涯之鴻恩ニ浴シ、其落成ヲ遂候上者、前件二堂之仏像経巻、大成之三仏堂ヘ合併安置仕、法要筋聊差支無之義ニ付、恐多キ歎願ニ者御座候得共、右輪蔵護摩堂共、五重塔其外御据置之振合ヲ以、神廟之荘観ヲ不失様、永久在来ノ地ニ御据置被下度、此段奉願上候也、

として、一切経蔵と護摩堂の二堂を東照宮境内に永久に据置かれたき旨を願い出て、同年一一月二〇日に、栃木県令により、

書面願之趣聞届候事

として、右願が聞届けられたこと。

がそれぞれ認められる。

右によれば、一切経蔵と護摩堂も、明治九年一一月二〇日に、被告の右据置願に対する栃木県令の聞届の指令により東照宮境内に据置かれることに決定し、結局本件各物件は、いずれも据置かれることになったわけである。

(三)、そこで、右据置によって本件各物件の帰属に変動があったかについて考えるに、

(1)、全国の神社のうちには、その境内に五重塔や阿弥陀堂などの仏的建造物がそのまま存置されたような例が若干存在することはすでに説示したところであり、また本件の場合も、前記のとおり、神社である東照宮の境内に仏的建造物を据置くことを県令が指令したわけであるから、その限りでは、このころの政府の神仏分離についての施策はかなり堅実さを加えて柔軟となり、これを反面からみれば、その当初の方針からは若干後退したとみることができるけれども、他方、≪証拠省略≫によると、右のように、政府において神社境内に仏的建造物を存置することを認めることがあっても、これによって当時の政府が神仏分離の方針を全く放棄したわけではなく、特に右存置された仏的建造物を神社に帰属させる場合には、必ずその前提として、当該建造物を仏用に供することを廃止し、かつそこから仏的な要素を完全に除去させ、これによって神的なものと仏的なものとを判然分離するというその基本的な方針を依然として堅持していたことが認められる。

(2)、そこで、これを本件についてみるに、≪証拠省略≫によると、

(Ⅰ)、日光における神仏分離の実施直後に、日光県知事は、本件各物件における仏事の執行を廃止させ、本地堂から仏像類を撤去させ、さらにその後も、栃木県令により、一切経蔵と護摩堂の経巻、仏像を、三仏堂移築後に撤去すべきことが指令されていたから、右によって、本件各物件につき仏的要素の除去が或る程度まで行われつつあったとみることができるけれども、すでにみてきたように、右の措置がとられたところは、未だ被告に対して本件各物件を移遷すべき旨が命じられていたのであるから、このことから考えると、右仏的要素の除去の措置は、本件各物件を原告に帰属させる前提としてとられたものとみることはできず、むしろ、神社境内での仏事の執行を廃止するという、そのころの神仏分離の一般的要請にもとずいて行われたものと解されること。

(Ⅱ)、そして、本件各物件がそれぞれ据置かれることに決定した当時、本地堂は説教所として使用されてはいたけれども、その内部には仏的物件である薬師仏厨子が引続き存置され、五重塔内部には仏像が据置かれ(なお、≪証拠省略≫には、同塔内部の仏像が一旦撤去された旨の記載があるが、右証拠は大正二年の作成にかかるもので、当時の状況を正しく伝えるものとはいい難いから採用しない)、また一切経蔵の内部には経巻が収蔵されており、従って右各堂塔については、なお仏的要素が残存していたこと。

(Ⅲ)、他方、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂については、右のような事情は存しないけれども、右各堂宇は、いずれもそれ自体直接に仏事の執行に供するものではなく、むしろ、東照宮社殿の景観を整えるための装飾的な機能に重点を置いて造営された建造物であるとみられるから、これについてその仏的要素の残存の有無やその除去を論ずることは意味がないこと。

(Ⅳ)、さらに、護摩堂については、その据置が決定した当時は、同堂の内部に仏像ないし経巻が存置されていたとみられるのであるが、その直後の明治九年一一月二五日に、原告は栃木県令に対して伺書を提出し、

当社地内ニ有之候旧護摩堂据置相成候ニ付テハ、向後神楽執行之節仮社務所ニ相用申度、此段相伺候也、

として、同堂を神楽執行の時に仮社務所として使用したいと伺い出て、同月三〇日に、右県令より、

書面伺之通

として聞届けられ、次いで原告は、明治一三年三月三一日に内務卿に対して「社務所移転伺」との伺書を提出し、

当社々務所之義ハ、従前神楽殿ヲ以取扱居候ニ付、七年十月元教部省ヘ届出候絵図面中ニモ、神楽殿ヲ社務所ト記載仕候得共、爾来神楽執行之節ニ常用物品取片付等、手数ニ有之候処、九年八月、満願寺ヨリ護摩輪蔵二堂、自今永久据置度旨願出、同年十一月、管轄庁ニ於テ聞届相成、同庁伺済之上、旧護摩堂ヲ以、仮社務所ニ相用、神楽殿ハ神楽執行ニ而已専用仕置候得共、其節教部省ヘハ不届出候間、于今依然神楽殿ヲ社務所ニ宛置候姿ニ相成居、名実相違致候ニ付、旧護摩堂ヲ社務所ニ相定度、現今ハ官営社営之御定規モ有之候ニ付、此段奉伺候也、

として、同堂を東照宮の社務所に定めたいと伺い出て、同年四月二一日に、内務卿より、

書面之趣聞届候事、

として、これが聞届けられているから、同堂については、前記据置後まもなく、その内部の仏像ないし経巻が搬出されたとみられ、その後は、東照宮の仮社務所あるいは社務所として使用されていたこと。

がそれぞれ認められる。

(3)、右によってみると、本件各物件のうち、本地堂、五重塔、および一切経蔵については、その据置が決定した当時に、なお仏的要素が残存していたわけであり、従って、これらの堂塔を原告に帰属させるとすれば、まさに前述のとおり、当時の政府の神仏分離の基本方針に全く背馳することになるといわなければならない。

さらにこのことは、後述のとおり、明治一三年から同一四年にかけて、原、被告間で右各堂塔につきこれを仏用に供する旨を約定し、かつこれにもとずく出願に対して栃木県令がそのまま聞届けの指令を発しているという事実によって、一層明らかであるということができる。

すなわち、聞届指令により、右の各堂塔は、仏用の建造物としての機能をほぼ完全に回復したとみることができるのであり、仮にこのような建造物が原告に帰属していたとするならば、それは、当時の政府の神仏分離の基本方針と全く矛盾することになることは多言を要しないところである。

なお、これとは別に、寺院所有の建造物が神社の境内に存置されるということも、一種の神仏混淆の形態を来すことにはなるけれども、本件の場合、すでに説示したとおり、政府は、東照宮の美観保持という要請のために、神社の境内に仏的建造物を据置くことを許し、仏的なものは仏地に置くという原則に固執しなかったのであり、このことを考慮すれば、この場合の混淆の程度は、前記の場合に比べてはるかに軽微であるといわなければならない。

(4)、これに対して、護摩堂については、明治九年一一月二五日に原告が単独で行った栃木県令に対する伺と、これに対する同月三〇日の許可指令により、神楽執行の時に東照宮の仮社務所として使用されることになり、従ってこのころに仏的要素の除去が行われたとみることができるけれども、他方、≪証拠省略≫によれば、護摩堂内部の仏像、経巻は、前記明治九年一月一八日付と同年八月付の、同堂に関する被告の出願とこれに対する栃木県令の指令により、満願寺の本堂にあてる予定の三仏堂の移築完成(同堂の移築工事は、前述のとおり明治一二年八月に完成した)まで、護摩堂に存置することが承認されており、このことからみても、右仮社務所に供する旨の伺は、原、被告双方から共同で行われるはずのものであったとみられるのであるが、原告としては、同堂が、他の本件各物件と異なり、東照宮の回廊内部のしかも本殿脇の場所にあるということから、前記明治六年一〇月四日の本地堂を説教所として用いる旨の伺を単独で提出した場合と同様に、あえて単独で伺い出たものとみられるし、また県令においても、右の事情のほか、右伺が、神楽執行の時だけ仮社務所として使用するという限定の付されたものであったために、特にこれを許可したものとみることができる。

さらに、前記のとおり、明治一三年四月二一日の内務卿から原告に対する指令では、護摩堂を東照宮の社務所として使用することが聞届けられており、これによって、同堂はいわば完全に神用に供されることに決定したとみることができるけれども、右証拠によれば、右聞届指令は、当時同堂が、前記神楽執行の節という限定なしに、実質的に東照宮の社務所として使用されており、その名目だけを仮社務所から社務所に変更したいとの伺に対して発せられたものであり、いわば同堂の据置決定後に作出された既成事実を前提とし、これを追認したものであるにすぎないことが明らである。

従って、右護摩堂については、その据置が決定した後に、仏的要素が除去されたうえ、神用に供されることにはなったが、それは右にみてきたような特殊な事情にもとずいて行われたのであって、このことをもって、同堂が右据置あるいはそれ以前に原告に帰属したということの根拠とはなし得ないというべきである。

(5)、なお、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂については、前記のとおり、その仏的要素の除去を考える余地はないけれども、右の各堂宇は、すでにみてきたように、いずれも前記五重塔と全く同様の経緯により据置かれることとなったのであり、ほかにも、右据置に関して、右以外の本件物件とその帰属を異にすることを窺い得るような特段の事情を認めるに足る証拠はない。

(6)、また、≪証拠省略≫によると、五重塔、鐘楼、鼓楼および虫喰鐘堂の据置を願い出た前記明治七年三月の被告から栃木県令に対する「奉願日光山諸堂移遷之事」との願書の冒頭には、

去ル明治四辛未年、当山御所置之砌、僧侶ヘ御渡シ被下置候神地内之仏堂移遷之義、

とあり、また一切経蔵と護摩堂の据置を願い出た前記明治九年八月の「東照宮地内二堂据置願」の冒頭にも、

先年日光山神仏判然御所置之砌、東照宮神地内之輪蔵護摩ノ両堂、其外中宮祠内之諸堂宇等、僧侶ヘ御渡ニ相成、当寺所轄之地所ヘ移遷可仕筈之処、

とあって、既に説示したとおり、本件各物件が、いずれも、明治四年に「僧侶ヘ御渡被下置」かれたこと、すなわち、被告に対しその所有ならびに占有の移転が行われたことを明らかにしているが、これに対して右出願の内容は、前者の願書(同願書添付の副願書)では、本地堂、一切経蔵、および護摩堂につき、

満願寺境内ヘ相移度候事、

また、五重塔、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂につき、

東照宮神廟荘飾之ため、其侭御差置ニ相成候様仕度候事、

とあり、後者の願書では、一切経蔵、および護摩堂につき、

右輪蔵護摩堂共、五重塔其外御据置之振合ヲ以、神廟之荘観ヲ不失様、永久在来ノ地ニ御据置被下度、此段奉願上候也、

と記載されているから、被告の右出願は、「移遷、相移」、あるいは「据置、差置」という単なる位置の変動に関するものにすぎないというべきであり、さらに、前記明治七年四月五日の教部省から原告に対する示達書においても、

其神地内之堂塔等、兼而満願寺ヘ引渡有之候分、今般引移並据置方之義ニ付、別紙之通願出候趣ヲ以、地方官ヨリ伺出有之、

とあって、右出願が「引移」または「据置」という位置の変動のみに関するものであったことを裏付けているとみることができる。

そして、既に説示したとおり、本件各物件は、右の出願に対する栃木県令の、

本地堂ヲ除之外、願之通聞届候事、

または、

書面願之趣聞届候事、

との指令により据置かれることとなったわけであるから、右指令は、神仏分離の実施後まもなく発せられた、本件各物件を満願寺の境内に移転すべき旨の命令を取消して、被告の右移転義務を免除したにとどまり、その帰属に対しては、何等の変更を加えるものではなかったと考えられる。

以上を総合して判断すれば、本件各物件は、明治七年から同一三年ごろまでの間に、いずれも東照宮の境内に据置かれることとなったが、その所有権は依然として被告に帰属していたとみることができる。

三、本地堂、一切経蔵、および五重塔に関する諸議定

(一)  先ず、本地堂および一切経蔵に関する議定についてみるに、すでに認定したとおり、本件各物件は、いずれも東照宮境内にその神廟荘飾の目的で据置かれることとなり、しかも、そのうち本地堂、一切経蔵、および五重塔には、それぞれその内部に薬師仏厨子、経巻、仏像などの仏的な物件が依然として存置されていたのであるが、≪証拠省略≫によれば、

(1)、明治一三年一月ごろから、原、被告間で、本地堂と一切経蔵の内部にそれぞれ存置されていた薬師仏厨子と経巻の取扱いにつき、内談が交わされていたが、同年二月はじめごろに、先ず、

一、東照宮神廟構内之一切経堂、予テ満願寺ヨリ願之通、宮廟荘飾ノ為据置クモノトナルニ就テハ、該堂内ノ経巻、並ニ附属品トモ、同寺ヘ運移スベキモノナレトモ、是亦熟議ノ上、其侭据置、従前之通、僧侶関係ノモノトシテ、社中差支ノナキ日、或ハ堂内ニ於テ、該経巻ヲ閲読スルモ亦妨ケナキ事、

但シ、閲読セント欲スルトキハ、差支ノ有無、予テ社務所ノ照会ヲ遂、其報答ニ任スヘキ事、

一、東照宮元本地堂内薬師仏厨子之義ハ、移ト不移ト、更ニ政府命令之旨趣ニ寄、順従スヘキ事、

として、一切経蔵内の経巻は据置くことにするが、本地堂内の薬師仏厨子を据置くか否かについては、政府の指令によって、決定する旨を約定し、これにもとずいて栃木県令にあてた「社寺定約之義ニ付願」との願書を作成したが、以下説示するとおり、原、被告は、その後も右の件について改めて約定をし、かつこれにもとずく県令あての願書を作成していることからみて明らかなように、右願書は、県令に提出されなかったか、または提出されたが、これに対する聞届の指令が下されなかったために、結局前記約定は失効したこと。

(2)、次いで同年六月には、右の点に関し、改めて県令に出願するために、

一、東照宮元本地堂満願寺ヨリ従事スルニ就テハ、明治四年神仏判然ノ旨趣ハ既ニ煙滅ニ属セシモノトシ、東照宮境内該堂宇、渾テ往年ノ通ニ相心得、彼此ノ議相唱申間敷、満願寺ニ於テハ薬師仏ヲ還座シ、是ヲ看護スルノミ、漫リニ挙措スルノ権アルモノニアラズ、寺内僧侶深ク該理由ヲ体認シ将来心得違無之様、堅ク誓約シ置可申事、

一、該堂内ニ於テ仏事執行便利ノ為メ仮ニ区域ヲ立、別ニ通路ヲ開キテ満願寺ヨリ従事スルモ、所有ヲ区別スルニアラズ、将来誤認スベカラザル事、

但、祭儀時間ハ仏事執行見合可申事、

一、一切経堂之儀、該蔵内経巻取扱ハ凡テ満願寺之所任ト致シ、差支ノ有無、社務所ヘ照会之上、開閉スベキ事、

として、本地堂につき、同堂での仏事執行を復活し、かつ明治四年に行われた神仏分離はすでに消滅したことにして、同堂の所有権が原、被告のいずれに帰属するかを区別しない旨を、また一切経蔵については、同堂内の経巻を据置くことを前提として、右経巻はすべて被告が取扱う旨をそれぞれ取り決め、またこれにもとずく願書も作成されたが、そのうち右の本地堂に関する約定について、県官から、「東照宮元本地堂」とあるのを、「東照宮社境内元本地堂」に、また「神仏判然之旨趣ハ煙滅ニ属セシモノトシ云々」を、「神仏判然令御達有之ニ付而ハ云々」と改定すべき旨の指示があり、その後右の点が改定されたか否かは不明であるが、結局、右約定にもとずく願書についても県令からの指令は発せられなかったこと。

(3)、そこで、原、被告は同年九月二四日に、右県官の意向を取り入れて、右の二堂につき、

一、元本地堂薬師仏還座候上ハ、仏事執行等勿論無差支ト雖、東照宮御祭典之節ハ仏事見合事、

一、同所修繕之義、内部ハ使用ニ関スル廉ヲ以、満願寺ニ於テ負担シ、外回リハ風致ニ関スル廉ヲ以、東照宮ニ於テ負担シ、内外難区分箇所及大修繕ハ、双方打合之上、費用半額宛可支出事、

但、各自負担当箇所修繕ト雖、互ニ通知之上着手ス可シ、

一、同所鍵之義ハ、開閉便利ノ為、満願寺ヘ可預置事、

一、経蔵堂内経巻之義、従前之通据置候ニ付テハ、無差支、満願寺ニ於テ経巻取扱可申事、

但、堂内輪蔵開閉ノ節ハ、社務所ヘ通知スヘシ、

一、同所修繕向、渾テ東照宮ニ於テ施行スヘキト雖、経筒已内及仏像等ノ修補ハ、満願寺ニテ可担当事、

一、同所鍵之義、経筒ノ分ハ、満願寺ニ預リ置、外締リ之分ハ東照宮ニ可蔵置事、

として、本地堂につき、すでに搬出してあった薬師仏を同堂に還座して仏事執行を復活し、その修繕は、内部を「使用ニ関スル廉ヲ以」って被告が、外部を「風致ニ関スル廉ヲ以」って原告がそれぞれその費用を負担し、その鍵は、「開閉便利ノ為」被告が「預置」くこと、また一切経蔵については、同堂内に存置されていた経巻を従前どおり据置くこととし、その修繕は、同堂内の経筒と仏像の修繕を除きすべての原告が行い、その鍵も、原告が「蔵置」くことをそれぞれ約定して議定書を作成したうえ、同月二〇日に、これを添付した「東照宮元本地堂並ニ輪蔵之義ニ付願」との願書により、栃木県令に対し、

東照宮地内不失旧観様致度ニ付、今般協議之上、元本地堂薬師仏及輪蔵内経巻、従前之通据置申度候間、御許可相成度、依テ別紙議定書並ニ絵図面相添、此段奉願候也、

と願い出たこと、これに対して県令は、同年一一月二五日に、

書面願之趣聞届候事、

と指令してこれを聞届けたこと。

がそれぞれ認められる。

右によれば、本地堂と一切経蔵については、原、被告間で再三にわたり議定が行われ、特に明治一三年六月の議定では、本地堂について、その所有権が原、被告のいずれに帰属するかを区別しないとまで約定されたが、そのうち同年九月の議定を除いては、いずれもそれにもとずく願書につき、県令からの指令がなかったために失効し、右の九月の議定のみが、これにもとずく出願に対して県令から聞届指令が発せられたことにより、効力を有することになったとみることができる。

そして、議定と聞届指令により、本地堂と一切経蔵内にそれぞれ存置されていた仏的な物件は、いずれもそのまま据置かれることに決定するとともに、一定の制約のもとにではあるが、被告において右二堂をその本来の用法に従って使用すること、すなわち仏用に供することが認められることとなり、このことは、前述したとおり、当時右二堂が被告に帰属していたことを示している。

ところで、右議定では、本地堂の外回りと、一切経蔵の経筒を除く部分の修繕は、原告において担当することとされているが、本件各物件が東照宮神廟荘飾の目的で据置となってからは、右二堂は東照宮境内の美観保持という機能をも有することになったわけであり、そのために右美観保持の点に関心を持つ原告において右修繕を担当することとされたものとみられるから、右修繕に関する約定をもって、右二堂が原告に帰属していたとみることはできない。

また、右議定において、本地堂の鍵と一切経蔵の経筒の鍵は被告が「預置」くこととされ、これに対して一切経蔵の鍵は原告が「蔵置」くこととされているが、前記≪証拠省略≫に照して考えると、右の「預置」と「蔵置」との間に特に重要な意味の違いを見出すことは困難であり、また右の鍵の所持に関する約定は、右議定の他の条項と対比して考えれば、右二堂における被告による仏事の執行と、原告による東照宮の儀式祭典の執行との調整をはかるために行われたものにすぎないとみられるので、このことも、右二堂が被告に帰属していたことを否定する理由にはならないというべきである。

(二)、次に、五重塔に関する議定についてみるに

(1)、≪証拠省略≫によると、

(Ⅰ)、明治一四年三月に、原、被告は、栃木県令にあてた「五重塔満願寺ニテ従事之義ニ付願」との願書を作成し、これにより、

東照宮境内諸堂宇渾テ旧観ヲ存候ニ付テ者、五重塔之義、社寺協議之上、経蔵議定書ニ準シ、修繕向之外、塔内仏像保存並ニ開閉等於満願寺担任致候様致度、此段相願候也、

として、原、被告間で協議のうえ、前記一切経蔵の議定に準じて、五重塔内部に存置されていた仏像の保存と同塔の開閉を被告が担当することとしたい旨を願い出たところ、これが県令から当時社寺に関する事務を所轄していた内務省に進達され、同年五月一三日に、同省の社寺局長から原告に対し、

其宮境内ニ建設有之五重塔内仏像、満願寺ニ於テ保存方之儀ニ付栃木県ヘ伺出候処、右ハ宮司以下並満願寺住職以下連署之議定書可被差出、此段申入候也、

として、右出願につき、原、被告連署の議定書を差出すようにとの申入れがあったこと。

(Ⅱ)、そこで、原、被告は、同年六月九日に、右申入れにもとずいて、

一、五重塔内仏其侭差置候ニ就テハ、従前之通、満願寺ヨリ仏前従事差支無之候事、

但シ東照宮御祭典之節ハ、従事可見合事、

一、該塔修繕之義ハ、所有主東照宮社務所ニ於テ受持之事、

但シ仏像仏器及塔内畳修補之義ハ、満願寺受持タルベク、尤社務所エ照会之上取計フベキ事、

一、該塔鍵之義ハ、開閉便利之為満願寺エ預リ置候事、

として、五重塔に存置されていた仏像を据置いて被告による仏事執行を復活するとともに、同塔の修繕は原告が担当し、また同塔の鍵は被告が所持する旨を約定した議定書を作成したこと。

がそれぞれ認められる。

(2)、右に認定したところによると、すでに前記明治一四年二月の願書において、五重塔の修繕、仏像保存、および開閉の点に関して前記一切経蔵の議定に準じた取扱いをする旨が、原、被告間で約定されていたとみられるから、右議定書は、その大要において右の願書の内容を再確認したものであるとみられるのであるが、ただその第二項に「所有主東照宮社務所」として、すでに認定したところと抵触するかのような記載があるので、この点について考えるに、≪証拠省略≫によれば、このころ原、被告間で行われた議定には、そこではじめて約定されたことを既定の事実のように表示する傾向があること、また右の議定書でも、既定のことであれば不必要であるのに、特に「所有主」との文言が挿入されていることからみて、右の「所有主東照宮社務所」の点は、前記明治一三年六月の本地堂についての議定でその所有権に関する約定がなされたのと同様に、前記議定の際にはじめて約定され、かつこれを既定の事実のように表現したものとみることができる。

そうすると、五重塔については、右議定において原告がその所有者となる旨が約定されたということになるが、すでにみてきたように、このような約定が効力を生ずるためには、その点に関して政府(県令)の許可が必要であり、しかも、当時の政府が、五重塔のような仏的建造物を神社に帰属させる場合には、その内部から仏的な物件をすべて排除して仏堂としての機能を完全に喪失させることがその前提とされていたというべきであるのに、右議定においては、五重塔内部に仏像を据置き、かつそこで東照宮の祭典の時以外には仏事を行うことまでが約定されているのであるから、当時の政府が、右議定書にあるような取扱いをそのまま容認することはあり得ないというほかなく、また次に述べるとおり、右五重塔の件について県令から原、被告双方に対して発せられた示達においても、右議定書の内容を審査した形跡が全くみられないから、結局、右五重塔の議定書は、前記の本地堂と一切経蔵に関する明治一三年二月と同年六月の各議定書と同様に、実際に政府に提出されなかったか、あるいは提出されてもこれが聞届けられなかったために、効力を生じなかったと考えられる。

(3)しかして、≪証拠省略≫によれば、明治一四年一〇月一二日に、栃木県令は、原、被告の双方に対して、

東照宮境内ニ建設有之五重塔、社寺協議之上、塔内仏像保存並開閉等満願寺ニ於テ担任ノ義、願之趣聞届候条、此旨相達候事、

と示達したが、右示達は、その文言を対比すれば、同年三月の前記願書に対して発せられたものであることが明らかであり、しかも同年六月の前記議定書には全く触れていないとみられるから、右五重塔の件については、前記内務省社寺局長の申入れにもかかわらず、右の三月の願書に対して示達が発せられたということで問題が解決したものとみることができる。

そして、右示達により、五重塔に存置されていた仏像はそのまま据置かれ、しかも被告においてこれを管理することとなり、他方同塔の修繕は、前記願書に「経蔵議定書ニ準シ」とあるところから、東照宮の美観保持に関心を持つ原告においてこれを負担することになったと考えられる。

すなわち、五重塔に関しては、明治一四年三月に、原、被告間で、同塔内の仏像をそのまま据置くとともにこれを被告が管理する旨の願書が作成され、これに対して、同年一〇月一二日に県令により聞届ける旨の示達が発せられたから、これによって同塔はいわば仏用に供されることとなったとみられるのであり、このことは、前記本地堂と一切経蔵につき説示したのと同様の理由により、同塔が当時被告に帰属していたことを示すものというべきであり、他方、同年六月九日に、原、被告間で、同塔の所有者を原告とする旨の議定が行われたが、これに対しては政府からの聞届けの指令が発せられなかったために、右議定は議定だけに終り、効力を生ずるには至らなかったということができる。

(三)、なお、本件各物件のうち、護摩堂、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂については、その使用や管理について、右本地堂、一切経蔵、五重塔の場合のような原、被告間の議定が行われたことを窺い得る証拠はないが、前記認定のとおり、護摩堂は、明治九年一一月三〇日に県令がこれを東照宮の仮社務所として使用することを聞届けて以来、原告において仮社務所または社務所としてこれを使用していたし、また鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂は、東照宮社殿の景観を整えるという荘飾的機能に重点の置かれた建造物であって、いずれも被告において直接仏用に供する余地のなかったものであり、従って、原、被告間でその使用に関して調整をはかる必要性に乏しかったために、議定が行われなかったものと考えられる。

四、本件各物件の神社明細帳への登載

(一)、≪証拠省略≫によれば、明治一五年三月一一日に、原告は栃木県令に対し、内務省にあてた神社明細図書進達書を提出したこと、また右進達された明細図書に本件各物件の絵図が掲載されていることがそれぞれ認められるから、そのころ本件各物件は、右進達書にもとずいて東照宮の神社明細帳に登載されたことが推認され、他方、明治一二年九月に調製されたとみられる満願寺の寺院明細帳には、本件各物件が登載されていなかったことが認められる。

(二)、ところで、≪証拠省略≫によると、右の明細帳とは、政府において全国の官社(官国幣社)、神社(右以外の神社)、および寺院の実状を把握するために、明治一二年六月一八日付内務省達乙第三一号(官社については、明治六年七月一八日付教部省番外)をもって、各府県の長官に対しその取調と、これにもとずく明細帳の調製を命じたことにより作成され、内務省と府県に一通ずつ備付けられていたものであること、また、その記載事項としては神社の場合と寺院の場合とでは若干異るが、例えば神社明細帳では、鎮座地、神格、神社名、祭神、社殿、境内、および氏子など、その存立の基礎となる事項の登載が要求されていることがそれぞれ認められ、従って、明細帳への登載は、社寺が、社寺行政の対象として政府により認可されることを意味し、社寺行政上認められた特別の権利義務を享有するための要件とされていたとみることはできるけれども、他方、右各証拠によると、明細帳は府県の長官が職権により社寺の実状を調査して作成するもので、前記のように進達という形式で事実上社寺からの登載等の申請が行われることはあっても、社寺からの登載や登載事項変更の申請に関する定めはなく、しかも明細帳の閲覧や謄本の下付の途もないこと(後に、大正二年内務省令第六号等により、この点の規定は若干整備されるに至った)が認められるので、当時における右明細帳の制度は、現在の宗教法人の登記と比べると未だ十分に整備されてはいなかったとみられるし、ましてこれが社寺財産の権利変動に関する公示制度としての機能まで有していたとみることは困難である。

(三)、次に、本件各物件が東照宮の神社明細帳に登載され、満願寺の寺院明細帳に登載されなかった理由につき検討するに、≪証拠省略≫によると、

(1)、明治六年六月に、東照宮は別格官幣社に定められたから、その明細帳は、前記明治六年七月一八日付の教部省番外にもとずいて調製されるべきものとみられるが、右教部省番外とそこで引用している明治三年閏七月二八日付布告には、明細帳の調製に関しその書式のみが掲げられているにすぎないのに対して、前記明治一二年六月一八日付の内務省達にはかなり詳細な基準が設けられており、また右明細帳の調製につき、官国幣社の場合とそれ以外の神社の場合とで、細部に差異はあったとしても、重要な点で区別を設ける必要はなかったとみられるから、東照宮の神社明細帳は、前記教部省番外に抵触しない限り、前記内務省達に準拠して調製されたとみられる。

(2)、そして、右教部省番外および内務省達によると、明細帳には、社堂、社寺境内地、および境外所有地などの財産をも登載すべきことを命じているが、そのうち境外所有地については、当該社寺の所有にかかるもののみを登載すべきであることは当然として、その他の社堂および境内地については、むしろ現実に社堂あるいは境内地として使用されている物件の登載が要求されていると考えられるし、また、当該社寺において所有ないし使用している社堂でも、それが境内にない場合には、登載しない扱いとなっていたと考えられる。

(3)、ところで、本件各物件は東照宮の神社明細帳に登載されたけれども、すでにみてきたように、右当時本件各物件は、護摩堂を除き東照宮の社殿として使用されていたわけではないが、いずれも「東照宮神廟荘飾」の目的でその境内に据置かれていたものであること、また右明治一二年の内務省達に掲げられた「明細帳取調方心得」の第八項に、

社寺境内ニ社堂外ノ建物教院ノ類アラハ、社堂間数ノ次ニ並ヘ挙クヘシ

とあることからみて、右登載は、この規定の趣旨により、原告が右の各物件を所有するか否かにかかわりなく行われたものと解されるし、他方、満願寺の寺院明細帳に本件各物件の登載がなかったのは、前述の境内にない社堂は登載しないという取扱いにより、前記明治四年一月に被告に帰属したことの明らかな大猷院につき登載がないのと同様に、それが被告の所有にかかるものであっても、境内に存しなかったために、右登載が行われなかったと解される。

従って、本件各物件が東照宮の神社明細帳に登載され、満願寺の寺院明細帳に登載されなかったという事実は、これまで認定したところと何等抵触するものではないというべきである。

(四)、なお、≪証拠省略≫によれば、明治四一年七月二〇日付勅令第一七七号により、前記神社明細帳の制度とは別に、神社財産登録制度が設けられ、明治四三年一〇月に本件各物件につき、原告の申請によりその所有にかかるものとして神社財産登録台帳に登録が行われたことが認められるが、右勅令の内容からみて明らかなように、右登録制度は、当時すでに行われていた登記制度とは別に設けられ、しかも右登録は神社からの一方的な申請にもとずいて行われるものであるから、右登録のあることをもって、本件各物件につき原告が所有権を有したことの根拠とはなし得ないというべきである。

第七、取得時効

一、先ず、本件各物件の占有関係について判断するに、

(一)、すでに認定したところによれば、

(1)、本件各物件は、明治四年の神仏分離実施の際に、日光県知事の指令にもとずいて、いずれも被告に引渡されてその占有するところとなり、その後、明治七年から同一三年にかけて、これらの物件は順次東照宮の境内に据置かれることにはなったが、これは単にその場所を移転しないことが決定したにすぎないから、これによって右物件に対する被告の占有には何等の変更もなかったこと。

(2)、しかしながら、本件各物件のうち護摩堂については、明治九年一一月三〇日の栃木県令の指令と同一三年四月二一日の内務卿の指令により、東照宮の仮社務所ないし社務所として使用されることに決定し、これにより同堂は、原告において占有するに至ったこと。

(3)、他方、本地堂、一切経蔵、および五重塔については、明治一三年一一月と同一四年一〇月の栃木県令の指令、指達により、それまで右各堂塔内に存置されていた厨子、経巻、仏像などの仏的な物件がそのまま据置かれることに決定し、しかも、東照宮の儀式、祭典との抵触を避けるため一定の制約はあったが、本地堂では被告による仏事の執行が、また一切経蔵と五重塔では被告によりその内部の経巻、仏像の維持、管理がそれぞれ行われることとなり、これらの堂塔は、被告によりいわば仏用に供されるに至ったこと。

が明らかであり、而して、右護摩堂、本地堂、一切経蔵、および五重塔の各使用状況につき、その後変更のあったことを窺い得る証拠はない。

(二)、ところで、≪証拠省略≫によると、

(1)、原告は、明治一二年一一月に、五重塔の破損箇所の修理を行ったが、これより先の明治一二年ごろに、日光二社一寺(二荒山神社、東照宮、および輪王寺)の諸堂塔の修理保存を目的として、栃木県令をはじめとする県内の有志や右二社一寺の長により保晃会という団体が組織され、明治一八年から同三〇年ごろにかけて右保晃会により本件各物件の修理が行われ、次いで右と同じ目的で県官が責任者となって組織された日光社寺共同事務所によりこれが受継がれ、明治三二年から大正一三年にかけて本件各物件の修理が行われ、これらの修理の費用は、寄付金や政府からの下付金のほかに、右二社一寺からの支出金により賄われていたが、その際本件各物件は、本地堂の内部を除いてすべて原告において修理する分として取扱われ、その支出金は、本地堂内部の分を除いてすべて原告のみが拠出し、これに対して、右本地堂内部は被告の修理分として取扱われ、被告においてその支出金を拠出したが、その他の修理に関しては、被告は全く寄与していないこと。

(2)、また右の当時、原告は、本件各物件について、東照宮の他の諸建造物とともに、毎日ほぼ定刻に職員に境内を巡回させるなどして、その看守と夜警にあたっていたこと。

がそれぞれ認められる。

(三)、右によれば、本地堂、一切経蔵、および五重塔は、民法が施行された明治三一年七月一六日以後も、被告により引続き仏用に使用されていたのであって、その間、原告において本地堂内部を除くこれらの堂塔の修理を担当し、あるいは境内を巡回してこれらの堂塔の看守、夜警にあたってはいたけれども、右修理は、前記認定の明治一三年九月と同一四年三月の原告と被告間の各約定にもとずいて行われたわけであるから、これらのことによって右被告の事実支配を排除したとみることはできないし、また、原告が被告を占有代理人としてこれらの堂塔を代理占有していたとの主張については、右明治一三年九月と同一四年三月の各約定をもって右代理占有関係を設定したとみることは困難であり、ほかにこの点を立証するに足る証拠もないから、結局、原告の右各堂塔に対する占有はこれを肯認することができない。

これに反して、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂については、原告において、右の本地堂などの場合のような被告との間の約定もないのに、明治一八年ないし同三〇年ごろからその修理を担当し、またその看守や夜警にあたっていたのであるから、一応これらの堂宇を他からの干渉を排除し得るような状態で独立して支配してきたとみられるのに対し、被告においては、右当時これを使用し、あるいはその維持保存のための費用を支出するなどして管理していたことを認めるに足る証拠はないから、右の各堂宇については、このころから原告において自主独立の占有を開始したというべきであり、また、護摩堂については、明治九年一一月と同一三年四月の前記各指令により、原告においてこれを仮社務所ないし社務所として使用するに至ったから、そのころに自主独立の占有を開始したとみることができる。

二、次に、原告の右護摩堂、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂に対する各占有につき、所有の意思の有無を考えるに、すでにみてきたところから明らかなように、原告の右占有はいずれも被告との約定にもとずくものではなく原告により独自に開始せられたものであるから、このことからみて右占有は所有の意思をもってはじめられたものと推定されるところ、これを覆えすに足る証拠はなく、また前記のとおり、明治四三年一〇月に、原告は、右の各堂宇を含む本件各物件について、その所有にかかるものとして神社財産登録台帳に登録する申請を行っているのであるから、このことも前記推定を裏付けるものとみることができる。

三、そこで、原告の右各堂宇に対する占有について、悪意または過失の有無を検討するに、弁論の全趣旨およびすでに認定してきたところによれば、日光における神仏分離は、その実施が遅延するうちに、他の地方ではみられないようなかなり特殊な取扱いが行われたということができるし、また本件各物件に対する政府または地方長官による種々の処分において、その帰属につき、必ずしも明確な形で関係者に周知徹底させていたとはいい難い点のあったことは否定できないところであり、さらに本件にあらわれた諸資料が当時すべて原告の手元にあったわけではないから、原告において、前記県令や内務卿の指令により東照宮の仮社務所または社務所として使用することを許可された護摩堂や、被告により直接仏用に供されることがなくむしろ東照宮の美観保持という機能に重点のあった鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂について、その所有権が自己に帰属したと誤信する余地は十分にあったわけであり、これらの点に照らして考えると、原告の右占有について、悪意ないし過失があったとにわかに断定することはできない。

四、従って、原告は、民法が施行された明治三一年七月一六日当時には、すでに本件各物件のうち護摩堂、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂を、それぞれ所有の意思をもって善意無過失且つ平穏公然に占有していたわけであり、またその後原告が右占有を喪失したことを窺い得る証拠もないので、これより一〇年を経過した明治四一年七月一六日に、原告は、取得時効により、右の各堂宇の所有権を取得したとみることができる。

第八、結論

以上によれば、本件各物件は、旧幕時代には原告の所有するところであったが、明治四年に日光において神仏分離が実施された際に、日光県知事による右神仏分離の処分にもとずき、その所有権はいずれも被告に移転された。しかしながら右各物件のうち、護摩堂、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂については、明治四一年七月一六日に、取得時効により、原告が再びその所有権を取得するに至ったということができる。

ところで、右の護摩堂以下の各物件について、被告のために主文第二項掲記の所有権保存登記がなされていることは、当事者間に争いがない。

よって、原告の本訴請求中、その予備的請求において、被告に対し取得時効にもとずき、右護摩堂、鐘楼、鼓楼、および虫喰鐘堂(別紙目録記載の(四)ないし(七)の各建物)の各所有権の確認と、右物件につきなされた前記保存登記の抹消登記手続を求める部分を正当として認容し、その余はいずれも失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条本文を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石沢三千雄 裁判官 杉山修 裁判官 藤井一男)

〈以下省略〉

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